一年を通じ、様々な年中行事があり、全国の神社でも様々な祭典が執り行われています。
元日早朝に天皇陛下が天地四方を拝される儀式。その年の天災を祓い、五穀豊穰と国家安泰、天下太平を御祈願されます。
全国の神社においても歳旦祭が斎行されます。
正月3日に天皇陛下が宮中三殿において皇位の元始を寿ぐお祭りです。
神社においても元始祭が斎行されます。
お正月に各家の門前を飾る門松は、正月の神様をお迎えするための木(神籬ーひもろぎ)です。正月の神様は歳神、歳徳神ともいわれ、一家の守護神であり御先祖であるとも考えられています。門松をたてて神霊をお迎えし、正月を祝うことは、祖先と子孫が共に正月をお祝いすることでもあるのです。
年が明けてから初めて神社に参拝することを初詣といいます。氏神さまや、恵方(その年の縁起通いとされる方角)にお祭りされている神社、崇敬する神社などにお参りし、新しい年の平安と無事をお祈りします。
古くは年籠りといって、大晦日の夜から朝にかけて氏神さまに篭る習わしがあり、これが初詣の起源と考えられています。
正月に神様にお供えした鏡もちを、おさげして食べるお祝いの儀式のことです。鏡もちは刃物で切らずに手や槌で割ったり砕いたりして食べるのがしきたりで、そのため切ると言わずに「開く」というお目出度い言葉を使っています。
鏡開きは正月のお祭りの直会でもあり、早いところでは4日、6日、7日におこない、11日、14日、15日に行うところもあります。
正月7日には七草粥を食べますが、この日までを松の内といいます。それに対して14日、15日、20日を中心する時期にも正月行事が行われています。これを小正月といいます。旧暦では一年の最初満月である15日が正月のはじまりと考えられており、その名残からこの時期を小正月と呼ぶようになりました。
小正月にはさまざまな行事が各地で催されますが、各家庭の正月の注連飾りなどをお焚き上げする左義長(どんど焼き)もこの時におこなわれます。
節分は立春の前日のことをいい、2月の3日か4日にあたります。節分とはもともと立春立夏立秋立冬の四季の分かれ目を意味しましたが、特に立春の前日だけを呼ぶようになりました。これは旧暦では立春前の節分が、年の始めの前日に当たることと、季節が冬から春に移る時期に当たることから特別な意味を持っていたからです。
この日には節分祭が行われ、豆まきが神社や各家庭でおこなわれますが、これは平安時代より宮中で、大晦日に邪気や災厄を祓う行事として行われていた追儺の儀式が起源とされています。
また、厄年などは立春から始まるとして、現在でも節分に厄除けの神事を行う地方も多く見受けられます。
2月11日は神武天皇が橿原宮において初めて天皇の位に就かれた日であり、この日が日本の国のはじまりでもあります。全国の神社において紀元祭が執り行われ、建国の偉業を称えるとともに、より良い国と平和な世の中を築いていけるよう祈念しています。
2月17日に執り行われるお祭りで、「としごひのまつり」といい、「年ーとし」とは米のことであり、年の初めに米を始めとする五穀の豊穰を祈ります。宮中においては奈良時代より祈年祭が執り行われ、全国の神社に幣帛が供せられていました。延喜式によるとその数は3132座に及んだとされており、いまでもその神社は(延喜)式内社と呼ばれています。
2月23日は今上陛下の御誕生日であり、国民の祝祭日となっています。天皇陛下の御誕生日は古くから天長節とよばれ、国民はこぞって慶祝の気持ちを表してきました。いまでもこの日には天長祭という祭りが、宮中や全国の神社で執り行われています。
3月3日の桃の節句に女の子のいる家庭ではひな人形をかざり、雛祭りが行われます。もともと古くから3月上旬には禊によって罪や穢を祓う習慣があり、そのときに祓えの道具として用いられた人形(ひとがたー木や紙などを人の形に似せて細工したもの)がひな人形の起源といわれています。流し雛の行事などは人形に寄せた罪穢を川に流して祓ったことの名残りといわれています。
年に2回、昼と夜の時間が同じになる日を、春は春分の日、秋は秋分の日と呼んでいます。この日を中日に前後3日の間をお彼岸と呼びます。お彼岸は仏教の行事と思われがちですが、もともとは我が国の伝統的な祖先を敬い大切にする信仰に由来しており、お墓にお参りするなどして、御先祖をお祭りします。またこの日に宮中において春季皇霊祭がとりおこなわれます。
厳しい冬が終わり、さまざまな生命の芽吹く春には、多くの神社では春祭りが執り行われます。これは、その年の農耕の始まりを神様にお告げして、神様の御加護のもと、無事に実りの秋を迎える事ができるようにお願いする、大切なお祭りなのです。
また、春は日本人にとって一年の始まりでもありました。いまでも、多くの学校や職場などでは春4月が一年の始まりとなっています。春祭りは、私たちの人生の大きな節目でもある春を祝い、一年の無事を祈るお祭りでもあるのです。
また我が国では、一年の農耕を始めるにあたり、春のある日に山に登り、花を摘み山の神、田の神さまを迎えて祭る風習がありました。現在でもこの季節にお花見が盛大に行われるのは、この風習の名残です。
昭和天皇がお生まれになられた日で、昭和の御代には「天皇誕生日」という陛下の御誕生をお祝いする国民の祝日でした。年号が平成に改まった後、自然をこよなく愛された昭和天皇の御遺徳を偲ぶために、「天皇誕生日」から「みどりの日」と変更されました。しかし、本来の趣旨が伝わりにくいという多くの国民の要望を受けて、平成17年に国会で「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正、平成19年より「昭和の日」と改められました。昭和天皇の御事跡に思いを馳せつつ、昭和の時代を振り返ってみてはいかがでしょうか。
平成の御代となり、自然を愛された昭和天皇の御遺徳を偲ぶために、4月29日であった「天皇誕生日」を、「みどりの日」へと変更されました。祝日法の改正により、4月29日が「昭和の日」と改められました後、「みどりの日」は5月4日に移動となりました。この祝日は「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としています。
5月5日のこどもの日は、端午の節句ともいわれ、平安時代に中国から日本に伝わり、しだいに民間に広がってゆきました。我が国では5月は田植えを控えた時期であり、従事する早乙女たちが心身を清めるため家の中にこもり、田の神さまをお迎えする「さつき忌み」が行われており、我が国古来のさつき忌みと中国伝来の端午の節句がしだいに習合していったと考えられています。
端午の節句には菖蒲やヨモギを軒に吊るしたり、柏餅やちまきを食べたりしましたが、武家社会では、菖蒲(しょうぶ)が尚武(武士道を重んじること)と同音なので、雛祭りに対比して男の子の祭りと考えられるようになり、江戸時代以降男子のいる家庭では、鯉のぼりをたて、甲冑、刀、武者人形を飾って、子供の成長を祝う行事となっていきました。明治時代になると一般の家庭でも武家と同じようにお祝いされるようになりました。
また、この日に菖蒲湯に入るのは、菖蒲が昔から薬草であり、邪気を祓い火災を除く力があると信じられていたことによります。
春の最も大きな行事は、田植えでした。一年の稲作の始まりである田植えは家族総出、村総出で行われました。田植えの始まりには神事が行われましたが、それはまた民衆の芸能など娯楽の要素がふくまれたもので、ユーモラスに様式化された田植えの様子やお囃子などは、地方色豊かなものです。機械化が進んで田植えの風景が様変わりした今でも、各地で行われるお田植え祭には、昔ながらの田植えの様子が生き生きと残っています。
私たちは平素生活を営むうちに知らず知らずの間に罪穢を受けています。その罪穢を祓うための儀式が大祓で、6月30日と12月31日に行われます。
大祓は、古事記日本書紀にみえる伊邪那岐命の禊祓が起源とされ、その後受け継がれ、たびたび国家的儀式としても行われており、平安時代の延喜式には四時祭(毎年決まって行われる国家的祭事)として恒例のお祭りになりました。
6月30日に行われる大祓は夏越大祓、水無月大祓ともいい、多くの神社の社頭には茅の輪が設けられ茅の輪くぐりが行われます。
茅の輪は「備後国風土記」に記された蘇民将来の説話に「小さい茅の輪を腰に付けて疫病よけとした」とあり、もともとは疫病よけのお守りとして、腰につけたり首にさげたりしていたのが、起源であるようです。
茅の輪をくぐる時には「みな月の夏越の祓する人はちとせの命のぶといふなり」という歌を唱えると言われています。
七夕は節句の一つで、有名な牽牛(けんぎゅう)と織女(おりひめ)の説話は中国より伝わったもので、はやくも奈良時代には宮中で七夕祭りが催されていました。しかしながら、我が国にも年に一度の神の訪れを、水辺の機屋で待ち、神とともに一夜をすごす聖なる乙女棚機女(たなばたつめ)の信仰があり、織女星伝説と習合したと考えられています。
また七夕は星祭りであるとおもわれていますが、我が国では御先祖をお迎えし、一夜を過ごした後に送るという祖先祭祀の一面もあるのです。
旧暦6月15日頃を中心に各地で夏祭りが行われます。夏は疫病、害虫、風水害等不安の多い季節で、それは悪霊、疫神のためであると考えられていました。これらの悪霊を鎮め、災害を除去するために夏祭りが執り行われています。
平安時代にはこれら悪霊を鎮める神様として、八坂(祇園)、北野(天神)、石清水(八幡)の信仰が京の都でさかんとなり、次第に地方にもひろがってゆきました。
農村ではこの時期は田植え後の不安な時期でもあり、水神祭や他の年中行事など悪霊、疫神を鎮める諸行事がもともとあり、その信仰と都から流行してきた信仰が習合して行きました。
旧暦7月15日を中心として、お盆の行事が各地で行われています。お盆はもともと我国古来の祖先祭祀で、正月と同様に御先祖の精霊を家にお迎えしてお祭りを行うもので(御魂祭)、仏教伝来以前から行われていました。地域によっては新暦の7月に行う所もあります。
13日にはお墓に参り、御先祖の精霊をお迎えし、15日にはお送りするのが習わしとなっています。各地で行われる盆踊りなどは本来御先祖の精霊をお迎えしてなぐさめ、送りだす目的のものであったと考えられています。
8月15日は、昭和20年、先帝陛下の御聖断により大東亜戦争が終結した日です。この日は国民こぞって、英霊の御冥福を祈り、日本が英霊の御功績に恥じない国として、世界の平和に寄与すべく努力することをお誓いする日でもあります。またこの日は、英霊をお祀りする全国の護国神社においてみたま祭が斎行されます。(靖國神社では、7月15日に行われます)
旧暦8月15日は十五夜、仲秋の名月ともいわれ、各地の神社では月のでるのを待って観月祭が執り行われます。また、各家庭においても、月見団子などのお供え物をしてお祝いすることが一般的に行われています。
観月と言う行事は中国より伝わったものですが、我国では月に農作物の豊穰を祈る祭礼として定着したと考えられています。特に秋の月を尊ぶのも稲穂の成熟と深い関係があるのです。
月をお祭りするのは十三夜、十五夜、十六夜、十七夜、十九夜、二十三夜とありますが、これを「月待ち」と称していました。月待ちは特に正月、5月、9月などに限られ行われていました。
春分と同様に、昼と夜の時間が同じになる日です。この日宮中では秋季皇霊祭がとり行われます。
実りの秋を迎えると、各地の神社では秋祭りが執り行われます。春のお祭りが、作物の豊作を祈願するお祭りであるのに対して、秋のお祭りは収穫に対する感謝のお祭りといえます。台風や日照り、虫害など人知を超えた自然の悪条件は、科学技術の進んだ現在でも収穫に悪影響を及ぼします。古来人々はその様な障害を乗り越えて無事収穫を終えたことを、神様のお陰であり、また、農作物そのものを神様の恵みとして、また、苦しい労働に一区切りをつけた事への喜びからも、感謝の念を込めて盛大に秋の祭りを行なってきました。特に農村部では、秋祭りは神社の中心的な祭礼であり、神輿の渡御やお神楽の奉納など、各神社で特色ある諸行事が行なわれています。
10月15日、16日、17日に伊勢の神宮において行われる大祭で、その年に収穫した新穀を天照大御神に奉るお祭りです。このお祭りは天照大御神が高天原において新穀を召し上がったという、「古事記」の神話に由来し、すでに「大宝令」(西暦702年)には国家の恒例祭祀として定められていました。
11月になると、子供たちの無事成長を感謝し、更なる成長を祈って七五三のお参りをする親子連れで、各地の神社が賑わいます。七五三は男の子は3才と5才、女の子は3才と7才の年に行ないますが、これは3才の髪置きの祝い(男女)、5才の袴着(男)、7才の帯解き(女)という子どもの成長に伴う儀礼のなごりだといわれています。
近年、七五三は11月中であれば、日にちにこだわらなくなってきましたが、もともとは15日に行なうものでした。これは、旧暦の11月15日は満月にあたり、秋祭りを行なう日として多く選ばれたためで、その日にこどもたちの成長を合わせて感謝し、祈ったものが、七五三の始まりだったことによります。
11月23日は現在、勤労感謝の日という国民の祝日になっていますが、もともとは新嘗祭という祭日でした。新嘗祭(にいなめさい)は豊作を祈願する2月の祈年祭に対して、収穫を感謝するお祭りで、宮中ならびに全国の神社で執り行われています。
また、天皇陛下が御即位された後に初めて執り行われる時は、特別に大嘗祭(だいじょうさい)とよばれ、一世一度の即位儀礼となっています。
煤払いは年末に新年を迎えるにあたり、家の内外を大掃除する行事で、煤掃き、煤納めともいわれています。元来は12月13日の正月の事始めに盛大に行われていました。煤払いはもともとは正月に年神さまを家にお迎えする準備のための宗教的な行事であって、単なる掃除ではなく、正月事始め、神祭りの始め、物忌みの始めのものでした。
12月31日の大晦日には一年の間に受けた罪穢を祓うために、大晦日(おおつごもり)大祓が宮中ならびに全国の神社で執り行われます。